1986年5月5日


 5月。ちょうどこの頃、東京サミットなどというものがあり、雨の有楽町のビル街の十字路の角やらいたるところに 警察官が棒を持って立ってたりして少々薄気味悪かった。そういえば当時はまだ、ニッポン放送のすぐ近くに皇居があるなんて 全然知らなかったと思う、というよりそんな事は当時の僕にはどうでもいいことだった。 前回の事もあるし なんら後ろめたい事も何もないのではあるが、どうも警察官の前を通る時に緊張してしまった。

それはともかく、警備の関係上とかなんとかの理由でこの日はニッポン放送のトイレを借りる事ができず、非常に困った記憶がある。

この頃になると、同じように玄関前で中島さんを待っている人達と話をするようになった。 思えば僕の方から話しかけた事は一年間の間、一度も無かった。 しかしファンになって2年弱、すべての曲を聴いたわけでも無かったし コンサートに行った経験も無い僕は一体彼等とどんな話をしていたのだろう・・。

 この日だったか前の週だったか、中島さんが来るのを待っていると一人の背の高い男性が話しかけてきた。 彼は中島さんがだいたい何時ぐらいに入る事が多いのか教えてくれた。 さらに東京での公演は16日と17日のまだ観ぬコンサートツアーをもうすでにどこかで観たらしく 「サマーバケーション」なんていう新曲(『あたいの夏休み』の事)を歌ったとその話などをしてくれた。 僕はまだファンになって日が浅い事や先日ハガキを読まれて貰った握手券なんぞを見せ、 こういうネタだったんだと話すと彼はそのネタをたまたま覚えていてなんだか嬉しいような恥ずかしいような気分になった。 握手券には番号がふってあり、彼は僕の見せた番号よりかなり若い番号の握手券を持ってる人を 知っているという。

この時僕は色々な情報を知っている彼にすごいなぁ・・と嘘のように素直に感心していた。 (根が天邪鬼なので。) しかし、彼が吸っていたハイライト一本分かそこらの短い時間だけ話をして、 話してる最中に来た何人かの人と一緒にどこかへ行ってしまった。 思えば彼はいわゆる玄関少年の常連というやつだった。短い時間の会話だったのだが何故か妙に覚えている・・・。 (ついでに書いておくとこの人はウチの掲示板に何度か書き込みしてるムロヤ氏だった。)

玄関少年の常連さん達と実際に交流をし始めるのはもっと先の11月かそこらになってからで、 当時の僕としては、ちょうど放送が終わったあたりの中島さんが帰る時間になるとどやどやと大人数でやってくる彼らに嫌悪すら 抱いていた。人が多いとやっぱり中島さんをじっくり見られないのと、彼等の場慣れした雰囲気が嫌だった。 (今から考えれば、それらの嫌悪感は単純に何年も前から玄関少年をやってきたであろう 彼等に対する妬みだったと思う。我ながら馬鹿だと思う。)




5月12日
この日は野田秀樹さんの特別番組で中島さんのオールナイトはお休みでした。
前回の放送で告知があったので、玄関には行きませんでした。





5月19日


 中島さんが玄関に入ってゆく所、そして帰る所。どちらの方が良いかと言えば、それは帰る中島さんを見る方が断然良かった。 中島さんが入る時間の玄関前には中島さん以外の人の出待ちをしてる人なども居たり、中島さんを待ってる人の中でも 最初に僕がそうしたように、玄関に入ってゆく中島さんを見たら満足してさっさと帰ってしまう、別に毎週通う気なんかなくて 一度来てみたかったので来たという雰囲気の人、色々であった。

中島さん自身にしても、これから仕事へ向かう所よりは一仕事終えて帰る所の方が気楽だったような気がしてならない。 中島さんは毎回毎回待ってる人達にあるいは誰に向かってというわけでもなく「お疲れさま〜」と言いながら玄関から出てきていた。

その日に初めてやってきた人などは、やはり初めて見る生の中島さんに異常に興奮して持ってきたプレゼントなんかを 本人に手渡ししようと必死になったあげく、結局マネージャーさんに横取りされてしまうなんて事もよくあった。 或いは、ホントにただ呆然と中島さんを見てるだけの人、とか。 玄関少年の常連さんは見慣れているせいか余裕で、帰る中島さんによく話しかけたりしていた。 中島さんは歩きつつもちゃんとそれに応えたりしていた。

そう。考えてみれば中島さんは嘘のようだが、深夜にやってくるたとえ毎週のように見る顔で あるにせよ、そういうどこの馬の骨かわからん若造たちの質問にちゃんと答えていた。 しかも笑顔でだ。それはやはり放送が終わって帰る場面で多くそれは見られた。

さて、以前僕が買った録音機能付きウォークマンにはマイク端子がありピンマイクが付属していた。 こうなればおのずと中島さんの生声を録音したくなるのは人の世の常。この日からしばしば玄関前の音を録音するようになった。 (当時すげえいいアイディアだぜ等と思ったものだが考える事はみんな同じらしく、同じ様な事をやってる人は以前から居たようだ。)

ちなみにこの日は玄関前に人もさほど多くはなく、また送迎のタクシーも若干玄関から車2台程離れた所に止めて待っていたため、 タクシーに向かっててくてく歩く中島さんにラジオで発売すると言っていたみゆきブランドの香水について、 玄関少年達は訊いていた。ごにょごにょとした部分は省略して一応そこだけ書きだしてみる。

(玄関少年A)「香水どうなったんですか?香水」
(み)「香水がねぇ、連休挟まっちゃってまぁだ厚生省から許可がでてこないの」
(玄関少年数人)「おや(笑)おや(笑)」
(み)「厚生省に内緒でだすとね、(少しおどけた雰囲気で)捕まっちゃうの」
(玄関少年B)「あぶない(笑)だって。」
(み)「わぉ」

とまあおよそこんな感じ。ここで言っていた香水は「七月夢(じゅらいむ)」という名でこの年の9月から全国をまわった 「中島みゆき展 おだやかな時代」の会場で一番最初に売られる事になる。通信販売では7月から売られたよう。






5月26日


この日の中島さん、赤いトレーナにジーンズ、耳に何故かどでかいイヤリング。 左の写真はその時の中島さんの耳、 やはり前と同じように玄関の扉の前で待機して逃げるように中に入ってゆく中島さんを撮影したものの一部。 当然の事ながら撮影時にイヤリングをしてるだの赤いトレーナーだのそんなことは目に入らず後で現像したものを見て 知った訳だが、これと同じイヤリングをしてる何かの写真を見た覚えがあるのだが・・と思っていたら 『LOVE』のチラシのモノクロ写真で見つけた。もっと他にもあったような気もするが、分らない。

当の本人は撮影されるのは嫌だったんだろうなとは思うが当時僕はそんな事は全く考えていなかった。 とにかく問答無用で撮りたかった、撮っておきたかった。

ニッポン放送の電波で聴いてる人達には『子猫物語』のチャトランがにゃーにゃーと1時を伝えていたこの時期、 ラジオでは今となってはさほど珍しくないが当時としてはかなりインパクトがあった「いちご大福」の話題などがあった。

何週間か前に中島さんが帰る際に中島さんに手を差し出して握手をしている常連とおぼしき人を見かけた。 何か言ってる様子も無く手を出しているだけで中島さんが気づけばちゃんと手を出して握手してくれてた、ように見えた。 中島さんに声をかけることなど出来るわけもなかった僕としてはいい方法を知ったなと思った。 誰がモンチッチの真似などする。割と本気で握手券が必要だと思っている人も居たようだが・・。

この日帰る中島さんに何かを手渡す人が居たよう。もらったものを見て中島さん
(み)「どうもありがとう いちご大福じゃないでしょうね(笑)まさかね」
などとのたまう。他に印象的なものとしては入る際に漫画を手渡している方も居たようで
(玄関少女A)「花ゆめ読んでくれました?」
(み)「はいっ?」
(玄関少女A)「花ゆめ」
(み)「あ、花ゆめ読んだ読んだーどうもどうもありがとう」
なんやかんやでタクシーに乗り込みつつ (み)「おつかれさま〜」
そして走り出すタクシー。


話は前後するが中島さんを待っている間、東京サミットも終わったようでニッポン放送のトイレを再び借りられるようになり、 トイレに向かう途中にこのようなモノが置いてあるのを見つけた。ニッポン放送の番組表である。

一枚の大きな紙を折り畳んで、シングルレコードを模した縦横サイズにしてあり、またそれらしくビニールに入っていた。 中をみてみると針すなお氏の似顔絵。それにしても改めて当時やっていた人々を見ると時代を感じてしまう。

 


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