1986年4月21日


 中島さんの出待ちまでするようになったのは実質この日からのようだ。 前回ピンぼけだった事を反省し、カメラの設定をし直して挑んだこの日。 やはり前と同じ場所を取りそこで待ち続け、午前12時20分、 中島さんが玄関に入ってゆく短い時間で大急ぎでカメラを向けファインダーを覗かずに中島さんを撮った。 ちなみに毎回毎回「はい、フラッシュやめてー」というマネージャーの声はあったが僕はおかまいなしだった。 しかし割と適当に設定したカメラにもかかわらず、ちゃんとした中島さんの写真を撮ることに成功。

 放送中もずっと玄関前で待っているという人は意外と少なくて、この日もひょろっとした男性と僕の二人だけだった。 中島さんが入るのを待っている時に、多分向こうから話しかけて来たんだと思う。 こういう場面で話しかける常套句である「誰待ってるんですか?」とかそういった言葉から。 考えてみれば見ず知らずの中島ファンと話をするなんて初めての事で、調子に乗って色々と話をした記憶があるが、 何を話したのかはもう忘れてしまった。

彼は中島さんに手紙を渡すのだといって手紙を見せてくれた、それとも無理矢理見てしまったのか、は忘れてしまったが・・ そこにあった一文を忘れられない・・・「中島みゆき、死ね」と書いてあるのだ・・・。 もちろんこの前後の文脈を僕が忘れてしまっている以上これをどういう意味で使っていたのかを知る由はもう無いのだが・・・ この当時中島さんにめろめろだった僕はどういう意味であれこういう文を書いて本人に渡す人が居るんだな、 と狭い自分の視野の中に入ってきた異物をどう処理していいのかわからないまま彼と話続けた。

 オールナイトの放送をするスタジオはビルの8階かそこららしいと何かで見聞きした覚えがあったので、 この日はオペラグラスを持ってきて、道路をはさんだ向かいの歩道へ行き、なんとか中島さんが見えないものかとオペラグラスのぞいてみた ・・・・が、よくわからない。そうこうしていた所、おまわりさんがやってきて職務質問ってやつをされた。(ニッポン放送の隣には警察署があります) 深夜に怪しげな男(雰囲気は今も昔も怪しいのです)がオペラグラスでなんやのぞいている。ってのは確かに怪しかったかもしれないが・・・ 正直に中島さんを見に来た事やらを話し、専門学校の学生証も見せてもそれでも怪しんで ヒトのポケットに勝手に手を突っ込んで来たのには驚いた。結局は何一つ怪しい物は持ってなかったわけで署に連れて行かれることもなかったのだが それにしても不愉快であった。


 オールナイトニッポンを毎週毎週聴いていた人なら、中島さんのファンだったら、 ハガキの一枚や二枚出した経験があるのではないだろうか。僕もご多分に漏れず毎週毎週せっせと書いて出したりしていた。 「もしかしたら読まれるかもしれないから・・」という思いから、放送を毎週毎週録音するようになった次第。 それが無ければ聴きっぱなしで、テープもそんなに安くは無かったし録音に固執する事もなかったかもしれない。

実はこの日から2ヶ月程前にハガキを読まれた事が一度だけあった。 まだ実家のある愛知に住んでいた時で、家族が寝静まった深夜に 布団の中でヘッドホンかなんかを使いつつ、この間出したハガキが読まれたらええな、と思いながら 録音も欠かさずに聴いているとなんの前ぶれもなく唐突に僕のハガキが読まれた。 間違いなく自分が書いたペンネーム自分が書いた内容をラジオの向こうの中島さんが読んでいる・・・・。 不思議な感覚でした・・・今、中島さんが自分が書いたハガキを持ってるんだな・・・と思い布団の中で身震いした・・。

読まれたのはいいが、匿名匿住所なんかにしてしまったせいでいまいち実感が湧かずに失敗してしまった。 ペンネームも「いんきんとたむし美味しいのはどっち」なんていうふざけたものだった。我ながらアホだ。 それらを反省し匿名匿住所はもうやめてこんなん読まれやしねえと半ばヤケクソでもういいや有名エコー希望したれ、と 毎週のようにハガキを出したりしていたら・・・・。

この日僕の出したハガキが読まれた。

この時僕はウォークマンで放送を聴きながら録音もしつつ玄関前に座っていて、読まれた時はもう小躍りして喜びながら、 また前とは違う不思議な感覚を経験していた。 さっき入っていった中島さんがこのビルの中で、読んでるんだな・・・と。

どんなネタだったのかは割愛させていただくとして、それよりちょっと予想外の事があった。 毎回ネタを書いてそれだけじゃつまらないと僕はそのネタにまつわる絵もちょろっと描いて出していた。 手前味噌だが、ここに中島さんの言った台詞を書いてみる。

「・・・実にこの人ねえ、イラストうイラストって漫画家じゃないかと思うくらい(うー)絵がうまいわけ さらさらさらさらーっとね下絵も無しでペンでねあのちゃんと描いてるんだよ太い線細い線描き分けて。それが。まあ・・・」 (括弧のうーはかすかに聞こえた多分ポチの声。・・)

・・・とこの後も絵の説明が続くのであるが、とにかく驚いた。もちろんイラストを添えるのは、 中島さんに絵のコメントを貰おう、というやらしい気持ちではあったのだが、こんな風に誉められるとは思ってもみないことだった。 いやホントに。

ちなみに当時はよくGペンを使って絵を描いたりしてたので、結構さらさらさらーっといった感じに見えたのかもしれない。 当然、鉛筆でちゃんと下書して描いたもの。でもまあとにもかくにも嬉しかった。 ついでと言っちゃなんだがこのハガキのお陰であの念願の「握手券」をもらうことにも成功した。


 放送も終わり、出てくる中島さんを待つ。玄関先には数人の人しか居なく、これならええわヒトが少なくて中島さんをじっくり見られる・・ と思った記憶がある・・しかし、放送が終わるとどこからともなく人が集まって来た・・なんだこれは・・・。(玄関少年少女の常連さん達は放送中は居酒屋さんで飲んでるのだ・・ そして放送が終わるとまた玄関にやってくるのだ・・とかなり後で知る・・・)

中島さんが出てきたのは午前4時頃だろうか。玄関の扉の近くでは出てくる中島さんを撮りにくいので道路に近い場所で待ち、 帰りの中島さんも撮影に成功。

とりあえず、この日中島さんの入り待ち出待ちを経験したわけだが、この後翌年の3月末に終了するまで毎週毎週これをくり返す事になる。 ホントひまな学生だった。月曜深夜、平日だというのに。


後日、この封筒に握手券が一枚だけぺろりと入った、他にはなんにも入ってない・・・ という愛想のないものが送られてきた。 消印は86年4月23日となっており、意外と素早い対応をするものなんだなと思った。 握手券の画像を載せたい所だが、実はこの後数ヶ月後に入れていた財布ごと紛失。 なくした時のくやしさといったらもう筆舌しがたいものであったのは言うまでもない。

余談ですが、左の写真を見ていただくと判りますが当時私は中野区中野に住んでいました。 アパートを選ぶ際に中野区中野の中野さんになっておもしれえやん、 という安易な発想のもと、そのアパートを選んだ記憶がある・・・・。

ちなみに現在このアパートは取り壊されてもうありません。代わりに小さなビルか何かが建ってるよう。






4月28日


 放送中など夜通し外で待っていて何が一番困るかと言えば、それはトイレだった。 駅も地下街も閉まってしまうと、もうホントに困ってしまった。なにせこちらは東京に出てきて1ヶ月も経っていない。 どこに何があるやらまださっぱり分からない。公園がすぐ近くにあってそこに公衆便所があったと知るのはもうちょい後の話。 前の週だったか有楽町の駅のガード下で立ち小便をするという暴挙に出てしまった事もあった。 当時、有楽町駅周辺は深夜になると全く人通りが無かったのでそんな事ができたのだが。

灯台もと暗し。実はもっと良いトイレの場所があったのだった。 どう見てもニッポン放送の関係者じゃない、どうも玄関少年の常連風の男性がドアを開け、ニッポン放送の中へ入って行く。 何をしに行ってるんだろう・・と思っていたがどうも玄関を入った奥にトイレがあるらしく、それを借りる事ができるんだと知る。 (どうやって知ったのかは忘れたが)

放送中だったか放送が終わった後だったか忘れたが・・小便もしたかったので、ならばと意を決して中に入ってみた。 入ると右手に小さい受付みたいな所があって守衛さんが居る。「トイレ貸して下さい」と言うと「いいよ」とぶっきらぼうにこたえる守衛さん。 守衛さんの隣にエレベーター、正面には階段。階段の隣の隙間を入ってゆくとトイレがあった。

現在放送中の音声がトイレの中でも聞こえた。トイレで用を足してるだけなんだけど、なんだか妙にわくわくした。

トイレを出て中から玄関の扉を見るとガラス戸にへばりついて中島さんを待ってる人達が見えた。なんとなく中島さんの気分を味わう・・・。

この日は中島さんが出てくるのが若干遅く、午前5時過ぎだった。 放送が終わって、中島さんがいつ出てくるのか全くわからなかったこの時期。送迎の東京無線のタクシーが2台来て マネージャーが様子を見に出てきたら中島さんもそろそろ、というのを知るのはもうちょっと後になってからだ。。


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