1986年4月7日


 4月7日月曜日の夜。この日もやはり玄関に向かった。
もうすでに僕は毎週毎週通う気でいたのだ。 とにもかくにも一枚でもいいから中島さんを撮っておきたくてやはりこの日もカメラを持って行き、 前回そうしたようにやはり少し玄関から離れた所から待ち始め、じりじりじりじりと玄関に近づいて行った。 誰かに先に玄関の扉の横に立たれちゃ、どけと言うわけにもいかないのでとにかく早いうちに場所取りをした。 再びうまいこと前回と同じ場所に立つ事ができ、それでもやっぱり何もする事もなく中島さんを待った・・。

午後11時45分。
中島さんが来た。道路脇に止めたタクシーから玄関の扉まではそれこそ数歩ほどの距離しかなく、 マネージャー付き添いのもと、あっと言う間に 玄関に入ってゆく中島さん。 やはりファインダーを覗いているヒマは無かったと思う。とにもかく中島さんにカメラを向けてシャッターをきる。 しかしこの日初めて中島さんの写真を撮ることに成功する。

前回のように終電間際という事も無く、無事中野のアパートに戻りANNを聴いた。この日のゲストは三田寛子嬢で、 あのまま玄関で待ってたら三田寛子嬢も見られたんだな・・・とぼんやり思った。

さて大いに気になる中島さんの写真。とにかくはやく現像に出したくてどうでもいいような部屋の中の写真なんぞを 撮りまくり、前回と同じ轍を踏まないよう気を使いながら巻き戻して国鉄中野駅前の写真屋さんに持って行った。

その写真屋さんはそれが普通一般的なのかどうか知らないのだが プリントした写真をわざわざ袋から出してトランプのように広げてこちらに見せて「これに間違いはないですね?」と毎回聞いていた。 その広げた写真の一番上が中島さんの写真だった。ちらっと見えたその写真を見て「おお・・写ってる」と感動し、 わくわくしながら部屋に戻り、よく見てみると・・・・ピンぼけ・・・・。

それでも一瞬しか見られなかった中島さんをじっくりと見ることができた。でかい眼鏡を かけてるという事や満面の笑みだった事もピンぼけ写真ながら、その時初めて判った。 本人を生で見ているはずなんだけど、いかんせん緊張やらあせりやらで本人の姿を全く覚えてなかったのだ・・。 そんなピンぼけ写真でもなんだかやけに嬉しかった。何度も何度もぼけーっと写真を眺めてた。

ピンぼけのその写真を眺めながら、やっぱり まあいいや、来週がある・・・と思った。






4月14日


前々回と前回と中島さんの玄関に入ってゆく所を見ただけで帰っていた訳だったが、 やはりあのまま玄関で待ち続けて玄関から出てくる中島さんの姿も見られれば写真を撮るチャンスも増える・・・などと思い、 引越したら何かと買わねばならない費用から失敬してラジオ付きウォークマンを買った。 ラジオ付きで録音機能もオートリバースも付いてなんやかんやで4万か5万弱はしたと思う。 (今から考えると、板ガムみたいな充電式電池も充電器も要らなかった・・ しかしこのウォークマンは後に意外と役に立ったりするものであった。)

家でつかっていたラジカセにタイマーなんぞ付いていなかった上当時はテープも安いと思える程の値段ではなかった。 これで放送を聴きながら録音するという事もでき、テープも120分じゃなく90分のテープで済む。 放送は3時に終わる。中島さんが帰るのが何時になるか分からないが、まあいいや早くにコトが終わったら始発まで待つさと思い、 また玄関に向かった・・・・・・・・。

この日初めて放送の終わりまで玄関前で待ち、中島さんの出てゆく所も見ようと思っていたのだが・・・ この日中島さんは福岡の放送局からの中継だった・・・。

この時どうだったろう・・・・多分玄関になかなか中島さんが来ないのでもうすでに入ったあとなんだな・・・などと思いながら 玄関先で放送を聴き始めたらなんと中島さんは福岡に居るという。 当然、ニッポン放送の人々はそんな事を玄関前に居るよくわからん人間達に言ってくれる訳もなく 放送を聴いて初めて中島さんが福岡に居ると知った・・・はず。確かに微妙ではあった。 この頃はコンサートツアー「五番目の季節」の真っ最中、13日に静岡でコンサート15日は福岡の予定だった。

とりあえず、この日はどうしたんだったか。終電が行っちまった以上朝まで居たのだろう・・いや・・ 同じように取り残された中島ファンの人達とどこかへ行ったんだったっけか・・もう・・覚えていない・・・。




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