1986年3月31日


 JRはまだ国鉄。改札は自動ではなく人がちゃんと鋏で切ってました。 都庁は有楽町の近くにまだあり、新宿の都庁はまだ建ってません。 ついでに銭湯が260円でコンビニは24時間営業の店はまだ少なかった。

国鉄有楽町駅から歩いて少しの所にニッポン放送はありました。 表面的だけにしろこの思い出深い建物は2001年頃に取り壊されしまい、 一時はお台場へ移転してましたが、新たにビルが建ちまた有楽町に戻ってきたようです。

ここがコンサート以外でファンと中島さんという立場を全く変えずに生でしかも間近で見られる唯一の場所でした。 当時当たり前のように思えたこの場所は今現在はもうありません。

ちなみにこれは98年頃撮影したもの。
見にくいですけど・・




 1986年の3月31日月曜日午後8時半頃、何故か実家にあった安物のカメラとフラッシュをカバンに詰め、 僕は中野にあるアパートを出た。引越ししてきた翌日の事である。

 初めて来た有楽町の駅を出てニッポン放送を探す。 場所は予め地図を見て記憶していたはずなのに見つからない。 10分か15分ほどふらふらと探し回ってやっと見つけたニッポン放送の玄関は 漠然と思っていたものより異常に狭く小さくこぢんまりとしていた。

そこにはニッポン放送と書かれた腕章を付けた人が数人と、誰かを待っているらしい人が数人がいた。 ああ、ここなのかやっと見つけたと思いつつも通行人のふりをして一度玄関前を素通りしてみる。 道路をはさんだ向かいの地下鉄の出入口なんかに行ってみる。

どこで立ち止まっていいやら、どこに立っていいやら落ち着けそうな居場所が無い、 なんだか中島さんが来るのを待つという行為そのものが非常に気恥ずかしくて落ちつかない。

中島さんが何時頃来るのか何に乗ってやってくるかも何も全くわからない、わかる由もない。 思えば当時はまだ全くTVに出ない人だったのでTV等で動いてる中島さんを見たことすら無かった。 見たことがあると言えば『GB』等のぼかし写真でしか見たことがない。 下手をすると本人が来てもわからないかもしれない。

とにかく玄関へ近づかねばと玄関から数メートル離れたニッポン放送の隣の警察署兼消防署のシャッターの前で立ち止まり、 とりあえずそこで中島さんを待つ事にした。 3月の終わり、昼間は暖かくてもさすがに夜は寒い。とにかく寒かった。もう少し厚着をしておきゃ良かったと思っても後の祭り。 話相手がいるわけでもなく、やることが何も無い。ただ立って待つだけ・・寒い・・寒い・・ 時計を見ると10時、中島さんはまだ来ない。

ニッポン放送にはいろんな人達の出入りがあったと思う。 腕章をつけた人は他のタレントの追っかけを抑止するためにいたようだ。 そのタレントさん(誰だったかもう憶えてない・・・)がニッポン放送から出ていった後にはもう居なくなった。 しかしまだ誰かを待つ人が数人いる。もしかしたら中島さんを待っているのか?

どうも立っている場所が良くない、もっと玄関の近くへと思い玄関の横にある 「ニュートーキョー」の料理サンプルが置いてあるガラスケースの前にじりじりと近づいてみる。 ガラスケースの中のサンプルを無意味にじっと見てみる。やることがホントに何も無い。 時間が長く感じられる。なにもする事もなくただ待ってるのは辛い。 そんな僕に眼鏡をかけた学生風の男が「みゆきさん何時頃入るんですか?」と 訊いてきた。彼も中島さんを見に初めてここに来たようだ。 しかしそんな事を訊かれてもこちらも初めてである。 「いやあ、ちょっとわかんないです」と言うしかない。 彼とはそれ以上の話はしなかった。 僕の風体を見て彼は中島さんを待っている人だと思ったのだろうか、わからない。

ニッポン放送の中をよく見てみたいと思い、かなり思い切って玄関の扉の前にまで行ってみる。 中を覗いてみても別段変わったものがあるわけでもなかった。 現在放送中のラジオが館内に流れてるようである。 この場所は中島さんを見るには一番いいんじゃないか?扉の横で待っていれば 必ず僕の前を通るはずだしと思い、僕はこの場所で待つことにした。 カバンからカメラを出し、フラッシュを装着。 この場所から動くまいと決意した。

11時を過ぎた頃、やけに騒がしい5〜6人の人達がやってきた。 どうやら彼らも中島さんを待っているようである。 後で分かった事だが、彼らが玄関少年の常連だった。 当時僕は玄関少年に「常連」が存在するとは夢にも思わなかったので、 変な人達が来たな、ぐらいにしか思わなかった。

なんだか人が増えている。僕の立っている場所からでは道路の方が良く見えない。

そして、午前0時10分。

道路の方にいた人達のどよめきが聞こえる。しかし此処からじゃ良く見えない。 これは中島さんに違いない、カメラカメラ、どれだ?どれが中島さんだ?と中島さんを探す。

マネージャーらしき人物が人をかき分けてやってくる。 その後ろから、待っていた人からのプレゼントなんかを受け取りつつ 聞き慣れた声と全く同じ声で「ありがとう」と言ってる中島さんらしき人物が来た。 僕は慌ててそちらにカメラを向けてシャッターを押す。ファインダーをのぞいてるヒマなど無かった。 「フラッシュやめて!」とマネージャーらしき人の声。

「へっ?なんで?」と思う間もなく中島さんは中に入り、奥のエレベーターに乗って 行ってしまった・・・・。時間にしたらほんの十数秒だったと思う。 「伝われ、愛」の中にある玄関少年達がカメラを持ってる写真を見てたせいか、 当然写真を撮っても構わないものだとばかり思っていた。

余韻に浸る間もなく僕は慌てて駅に向かって走り出した。急いで中野のアパートに帰って放送を録音しなくては。 当時毎週毎週中島さんのオールナイトニッポンを録音していたので。録音していた訳は後述。 なんとか電車に間に合い、部屋に帰って時計を見てみると午前0時59分だった。

放送がはじまりいきなりオールナイトのスタジオの模様を生放送中ですと大嘘をついた中島さん。 そういや日付が変わって4月1日なんだけどね。気づかず慌ててTVをつけたのは僕だけではないと思う。

この時点では未だコンサートを観た事はなかったので初めて生の中島さんを見た、ということになるわけですが、 実はこの時の中島さんの姿は全く記憶にないのです。 そしてこの時撮った写真も、手巻きで巻き戻すカメラでフィルムを巻き戻す際にフィルムを引きちぎってしまう という大失敗をやらかして、残っていない。

まあいいや、来週がある。・・・とその時僕は思った。




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