1994年12月4日(日) Bunkamuraシアターコクーン
こちらからは死角になってしまうようなシーンでは、
やはりみんな観たいと思って身を乗り出して観ていた。なんだか無理をしないと観られないとか、
こういうのがイヤだった。いや、承知の上で観てはいるのだが。
この時の夜会は前回のような短い物語ではなく、ひとつの長い物語で曲を構成してゆくやり方。
それでもまだ、演劇を観ている感覚は薄くて不器用に表現されてゆく物語はそれはそれで中島さんらしかったかもしれない。
とはいえやはり無理のある話の展開、一番最初にオチがわかってしまうひねりの無さ。
物語を観るというよりも曲を聴く感覚が多くを占めたまま観ていたはずだが、やはり物語の流れを理解しようという意識に傾いてゆく。
そうすると、とにかく話がまどろっこしい。話の合間に曲が無理矢理はさんであるという感じ。
前回の二時間半ぶっ通しの夜会で相当体力的にきつかったのかもしれないが、この年から休憩が入るようになる。
ただ、二時間やるほどのネタとも思えず、それがまどろっこしさの原因かもしれない。
話がすすむにつれこりゃ中島さんが二役やるんだろうなとぼんやりと思えてくる。
案の定中島さんが二役をやり、ついでに早替わりまで披露。
中島さんのうっふっふという笑い声が聞こえてきそうな感じ。
この早替わりの快感に味をしめて、次の夜会では一人二役の役となる。と言い切ってしまう。
終盤に種明かしのような歌『生きてゆくおまえ』を歌うのだが、これはどう考えてもこの場面のためだけの歌だと思う。
この時だけのこの場面でしか聴けない曲にしちまった、とも言える。
後にこの歌はアルバムに入れられるけども、夜会を観てない人にはなんやらようわからんものに仕上がっている。
wing系のアルバムは初期の夜会の逆をやろうという意図がみえたがすべて失敗に終わっていると思う。
いわゆる母子ものというやつで、男である私には感情移入が出来ないものになっていた。
下手すりゃ男は悪者ぐらいの描き方でもあったし。
あまりに傾倒しすぎてて、ついでに立見席でたった一回だけ観たというのもあり、
印象に全く残らない夜会になっていた。
もっとも特定の女性には非常に受けが良かったと思うけど。
既存のアルバムなどから曲を選曲して構成していったのはこの年の夜会まで。
「うそつき」という言葉が欲しくて「黄砂に吹かれて」を歌ってしまうあたりなど選曲に苦しんでるようにも見えた。
ただ「黄砂に吹かれて」は比較的知られている歌だから歌ったのかもしれない。
どちらにせよ、この翌年から書き下ろし地獄が始まることになる。
<シャングリラ>
立ち見 ¥5000
立ち見でも5000円。やはり立ち見席は見にくい。
この年の夜会は1回こっきり、しかも立ち見で実際に舞台を観たという感覚があまりない。
立ち見席というのがちゃんとあって、手すりに番号がふってあるシールが貼られてるのが、
なんだか妙な感じだった。