夜会 VOL.13
<24時着0時発>


2004年1月4日(日)、1月24日(土)
Bunkamuraシアターコクーン
S席 ¥15000

なんやようわからん。。

実は全く話を理解できておりません、だが話を理解できないまま書いてみる。 他の情報や人の意見を一切見ずに書くことで、 勘違い、記憶違い、無知等々で恥はかくかもしれないが自分が思った事が書けるかもしれん。 間違いがあれば指摘していただきたいものだが、まあいいか・・。

この夜会の初日は1月3日、こんな正月早々から始めるのには訳がある。 それは紅白に出演できない理由を作るため。それ以外に理由はないと言って過言ではない。 一度出演しちまうとまた出てくれとなりますからね。プロジェクXは現在も放映中なわけだし。

中島さん本人による場内アナウンス、私はトイレの中で聞いた。 中島さん本人が言えばいうことを聞くだろうという意図がほんの少しでもあるとしたら、怖い。 ただの遊び心であると思いたい。

場内が真っ暗になり客席の天井に星、汽車の音が響く中で何故だか唐突にいやな予感がした。 金髪にこれはもう間違いなくメーテルを意識したとしか思えない衣装で・・、 いやそれはいい過ぎか、ともかく唐突に右から現れスタンドマイクで一曲。

中島さんの歌声はやはり聴き取りづらい。 歌い始めてすぐに意識して言葉を聞き取るのが嫌になり、普通に耳に入ってこない言葉を放棄。 もともと耳が悪いので。 これがまずかった、初めて観た時にこれをしてしまったせいで後半の意味が全く解らなかった。 今回、歌の歌詞が物語の流れを示唆する重要なものになってしまっている。 なんの情報も得ないまま、会場で購入したプログラムすら見ず、 ただちらりと見たインタビュー記事の「銀河鉄道」という言葉が頭の片隅にあるまま観たのもいけなかった。

アルバム『恋文』から選曲されるのは予想どおり。 しかしアルバムは一度流して聴いたきりで、おかげでほぼ全部知らない歌という事態に。

主人公の本人を中島さんともう一人でやるってのは『2/2』と同じ。 本人じゃなくて役名は『影』らしいけども、なぜ必要だったのかはわからない。。 しかし、香坂千晶嬢は見事に中島さんのコピーを演じていて、中島さんの独特な動きを実にうまく再現していた。 いやコピーじゃないけど。 ドッペルゲンガーなのかな?私死ぬのかしらというような台詞もあったし、 あのものすげえ頭痛えぇという演技もその一環か。。 ただ単純に死んじゃったのかもしれん。いや死んだかどうだかは考えるのもめんどくさい。 「新婚旅行も行ってないのに」で意図せずに客にくすくすと笑われてしまう中島さん。 中島さんが着替える時間をつなぐためか、占いだかなんだか解らないけどもカードのシーンがやたらだるかった。 仮に意味があってもくそ面白くない。

舞台下に目をやると、私の席はたまたま舞台下の杉本和世嬢がはっきり見える位置で、 曲によってサングラスをして歌ったり、ものすごい形相で感情をこめて歌ってるのが見えた。

ええ声だし存在感もそこそこあったけども別に三代目魚武濱田成夫氏じゃなくても充分成り立つ役だと思う『鮭』。 中島さんと異質な者がぶつかるところが見たかったがイエスマンだらけの中ではそれも無理のよう。 ちなみに歌う部分では彼は歌っていない。実際に声を出して歌っているのかもしれないが、 耳に入るほとんどの部分は地下のなんやらいう人が歌声をかぶせているのが分かった。 これにはちょっと驚いてしまった。 彼の自由にやらせてるようでなんだかんだと個性を潰している、と思う。ある意味すごい。

中島さんが歌う際には必ずハンドマイクを持って歌っており、それを考えれば 頭につけるなんて言うのか知らんが、あのマイクで歌を録音する事に抵抗があるのかもしれない。 それにしても歌わせないつうのはすごいな。何のために彼は舞台の上に居るんでしょう。

中盤の財布を落として見せてその隙に云々という演出は要らない。 ここで笑わそうという意図があったようだが、笑えない。しかも二度三度と続けてやってしまう、しつこい・・。 あの場面で落ちた財布を嬉しそうに女が拾うというセンスがやはり古臭すぎる。 ここは無理に笑いを取りにいかない方が後の変な展開にもスムーズに行けたと思うが、 どうしてもここで笑いを取っておきたかったようで24日には「めっちゃそのままですよ」と彼に言わせる。

ホテルのフロントで彼がが舞台の右上の方を指差して、 なんやらとデカイ声でわめくシーンでは何て言ってるのかさっぱりわからなかった。 わからなくてもいいのかもしれんけど。 「980tim」を鏡に映して見ると「mirage」か、だから説明の意味もあって雲みたいな文字が出たのか、と 気が付いたのは二度目に観た時。 このtimが最後のオチになるわけだけども、ふうん・・としか思えない。

そういえば帽子を色々と変えてたけど、その帽子の中のひとつがマグリットの絵画を思い出させた。 奇しくも2002年7月頃にBunkamuraでマグリット展をやっていたが、関係ないか・・。 舞台セットも不思議な雰囲気をつくるためあれこれとやってはいるものの、いまいち雰囲気が出せていない・・。 部屋のドアを開けたら色んな風景とか、こういう些細な部分がわりと安易。意味があってもやはり俗っぽい。 上に行くために階段を降りなさいとか、なんでこういう部分だけ手垢のついた表現をするんだろ。 そんな老体に鞭打つような演出も実は要らない。

おかげで中島さんが上の階に居たら絶対に下に降りるための時間をこっちは待たないといけない。 もしかして、そのための「影」か?もしそうならひどいな。 ただ、今回の夜会のポスターにもプログラムにも階段の写真がだまし絵を彷彿とさせる使われ方をしており、 どうしてもこの表現でやりたかったようだ。 しかし脇役の「鮭」たちが階段をどかどか駆けのぼる場面などにに比べ、 やはりちんたらちんたらと歌いながら上ったりする中島さんは観ていてもだるくて、 意味があっても観ていてつまらない。

紆余曲折の人生と蛇行する川と流れる水の軌道を鉄道の軌道の線路と色々重ねて、 転轍機が時計の針と形が似てるんで、と。水門を鉄道の都合と置き換えてと 川の流れを変える事をすなわち別の人生とするという無理矢理さ。 別に無理矢理でもいいんです。それが面白ければ。 いや、最初の発想は”鉄道”だったはずだ、鉄道に”銀河”付けたらええ感じに人生まで語れるかしらといった発想に、 それからさらに川の軌道と重ねた段階でこれは失敗。 物語の大部分は川の話になっており、鉄道の要素など実は欠片も存在しないと気がついた。 結果的に転轍機とその周辺の都合が欲しかっただけ、にしか見えない。

基本的に中島さんは視覚的なセンスというのがかなり良くない。 だから私の書いた絵を漫画家みたいなどといってしまうわけで、それはともかく、 視覚的な印象から言葉にもっていって成功した例も多々あるものの、 基本的な発想はやはり同じだけど、今回はちょっとひどいです。 転轍機のレバーが時計の針と似てる・・て。まあ時計の針を回すというのは時間を戻すとかそんな意味もあるんだろうが、 それも強引だしちょっとひどいです。これが物語タイトルにもなっている核だというのに。 この場面でさすがに納得はできなかった。なんじゃそらというのが感想。

今回はタイトルは「鮭」にでもしとけよ、と思う。するわけないけど。 やはり鉄道の軌道と川の軌道というのは絶対的に違うもので、 たしかに今までにはない見方ではあるけども、それは気が付かなかったというものじゃなく、 気が付いてもやらなかった、という性質のものだと思う。 とにかく見終わった後のタイトルに対する違和感はすごかった、 こっちの思い込みもかなりあったせいでもあるけども。

なんとまあ『二隻の舟』を入れている。 もうこれを気にせず作るものだと勝手に思いこんでいた。 だからウィンターガーデンのプログラムだけが銀色なのか。 しかしこういうのを意固地に通し続けたくなる気持ちもなんとなく解る気もする。良し悪しはともかく。 前回の感想として「夜会の定義など中島さん自身は決めてなどいないはず、」なんてことを書いたが これは間違いだったようだ。明らかに中島さんはこういうものが夜会だと自身の中で定義しているようだ。 前回までの夜会のをなにかしら必ず踏襲しているし。

時間を20分ほど残して物語自体は終了。 考えてみると、物語の実質的な時間は前半45分後半40分で大体85分しかない、 オープニングの歌も除いてしまうと、80分ほどしかない。 それでも15分の休憩がある。やはり体力的な問題だろうが、今回は一気に観せてもらったほうが良かった気がする。 言いたいことは一番始めの歌と最後の二曲で事足りるという、長くない話を無理矢理延ばしたような印象で、 それでいて衣装替えの多いこと多いこと、その時間は全てコーラス任せ香坂嬢任せで、 基本的に彼女達は中島さんの引き立て役として個性を潰されたものになってしまっているので、退屈でうまく繋げてはいない。 もっとも「金環蝕」よりはまし。 特に後半は舞台上の動きも少なく眠くなってしまうほどだった。

一番最後にミュージシャンや出演者の挨拶の後、 別の世界なんだかしらないが、やけに中途半端な二人芝居がある、そして 20分間中島さん一人で歌う。舞台上には基本的にはなにもない。 その場で上着を脱いで歌うが、ただこれは物語の流れの一環じゃない。 過去の夜会でも最後に一人や複数で歌って終わる事がほとんどだが、今回のこの構成はなによりも『シャングリラ』に似てる。 似てるというより全く同じ。夜会も回帰しはじめたか、いや単純に一個人が好んでやる行為ってのはやはり限りがあるって事だな。 中島さんが気に入らない事は絶対やりませんから。 そういやプログラムも初期の赤地に「夜会」の文字だけのやつになってる。

特定の状況や感情のもとで過去に出した曲を歌うことで、その歌が本来持っているもの以外の何かを引き出すという意図が 夜会を始める一番はじめにあったはず。それは全曲書き下ろしになっても実はひっそりと継続はしていたようだが、 どうも今回はその印象が薄い。全部物語の為の歌になってる、と思えてしまう。 物語のためだけの歌が、歌としての魅力に欠けてしまうのは「シャングリラ」の「生きてゆくおまえ」を聴けばわかるはず。 ちなみにwing系アルバムはこの夜会の逆のパターンをやってすべて失敗している。

なんだか・・胴体が太いな足首も太い、若かりし頃の3倍といったら過言。 まあともかく中島さんの変な踊りも意外と良くて歌はそれなりに楽しめたけども。 最初に観たその日がたまたまそうだったのかもしれないが、 この時の異常にかちんこちんに硬直したような表情で歌っている中島さんが何故だか妙に印象的だった。 歌い終わった後、衣装を変えてまた出てきたのには少々げんなりしてしまった。 歌詞を解りやすくするために、、かどうかは知らないが、歌詞を歌わずに語る。 最後はやはり歌うわけだけども、両方共劇中でも歌われた歌で若干歌詞が違う程度。 プログラムを見ると「舞台挨拶に替えて」とある、なんだこりゃ。

今まで微妙に無理な展開の物語が多かったが、今回はもう最初からそういう部分を放棄。 不思議な世界なら筋など別にええでしょうとばかりに、言葉遊びをそのまんま舞台化したような印象だった。 しかし不思議な世界を創るつもりがいまいち不思議になりきれず、やたらと中途半端。 細部まで神経質に練りに練って創った挙句に肝心の全体像がぼやけてしまった。 「舞台挨拶に替えて」なんてのがあるのがその証拠ともいえる。

「海嘯」の所に「何故だか感情をどっかへ置き去りにしたように見えてしまう登場人物達」なんてことを前に書いたけども、 今回の舞台上には「感情」がない。形式的にはあったことはあったけども。 今回はもともとたいした感情を描く必要の無いものを素材にしている。 考えてみれば主人公以外の感情っていつでも大体おざなりで無視してるよな・・。 それが中島さんらしさである、とまで言い切ってしまう。もっとも主人公の感情も怪しいけども。 かつて天沢退二郎氏が中島さんを表して「人の心を旅する旅人だ」となんかで言ってたけども、 実際は自分の心の中だけを徘徊してるに過ぎない。

中島さんも51歳、今年2月で52歳、もしかしたら漠然と死を意識するようになってるのかもしれない。 愛だ恋だというより、いやもちろん愛だ恋だという感情が無くなりはしないだろうが、 二十代のそれとは大きくかけ離れたものになっているのは間違いない、 それよりもなによりも自身の死が一番身近に感じるものなのかもしれない。 いや、ちょっとそう思ったもので。

前回の湿原もそうだけど三日月の湖とか鮭とか北海道を連想させる要素を盛り込んでいるものの、 中島さんはさほど北海道に想い入れは無いと思う。 「あんまり北海道の空気を出してない」とは室蘭出身安倍なつみ嬢の言葉だが、言い得て妙。 出身地に変わらずあるのは、投げ上げずにはいられなかった自分の記憶だけ、だろうと思う。 親兄弟みんな東京に住んでるしね。 そういや劇中のふるさとに帰ってくるな云々という部分で「異国」を歌うんじゃないかとちょっと鳥肌が立ったが、 やはり歌わなかった。まあ意味は無い。 最新アルバムから選曲されてるものの、それ以前の曲を頑なまでに選曲してないということは、 やはり今現在の中島さんの創作活動の”全て”が夜会中心に動いているということだ。困ったものだ。

今回の夜会は中島さんにとっては完成度の高いもののひとつになるんだろうか・・。 私の理屈からすると満足できるものになっているらしい。 前回の『ウィンターガーデン』を引きずる形で細かいフリと落ちをきちんと用意して、 物語に必要な要素を暗喩で歌の中に忍び込ませて、なるほど・・と思わすつもりなんだろうけども。。 しかし、私としては面白いとは思えなかった。 細かい部分をつぶさに観察すれば面白いと思える部分もあるだろうが、全体を通して”普通に面白くない舞台”だった。 重要な歌の部分さえも退屈に思えてしまうほど。 この先いつまで続けられるのか分からないが、 歳をとるにつれ中島さんでさえも、ひとりよがり的なモノを作ってしまう事が多くなってゆくんだろうな・・と思った。

やはりただの好みの問題と言ってしまえばそれだけのこと。


全く関係ないが以前描いた銀河鉄道関係の絵。


もどる

最初にもどる